辞書であり、共同体の自己記録である

Jargon Fileは、ハッカー文化の語彙、言い回し、冗談、人物像、技術的な伝承を集めた文書である。

ただし、通常の技術用語集とは少し違う。

普通の技術辞書
        = 外部の編集者が用語を定義する
        
        Jargon File
        = 共同体の内部にいた人々が
          自分たちの言葉と文化を書き留める

そこには、単語の意味だけでなく、語がどの研究室や計算機文化から来たか、どう発音されたか、どのような冗談を伴っていたかまで収められた。

Jargon Fileは、ハッカーを外から説明する辞書ではなく、ハッカー文化が自分を説明しようとした文書だった。

1975年、Stanfordで始まる

Jargon Fileの原型は、1975年にStanford Artificial Intelligence Laboratory――SAILのRaphael Finkelによって始められた。

SAIL上では、ファイルはAIWORD.RF[UP,DOC]という名前で保持された。

最初から世界中のコンピュータ用語を集めた辞書だったわけではない。

MIT AI Lab
        Stanford AI Lab
        BBN
        CMU
        WPI
        ARPANET上のAI・LISP・PDP-10文化

こうした研究機関や計算機共同体の内部で使われていた語が集められた。

一部の語は、文書が作られた1975年よりさらに古く、1960年代初頭のMIT Tech Model Railroad Clubまで遡る。

1976年、ファイルがネットワークを渡る

1976年、Mark CrispinはSAIL上でJargon Fileの告知を見つけ、FTPでMITへコピーした。

AIに限らない言葉が多数含まれていたため、MIT側ではやがてJARGONという名前で扱われるようになった。

Mark CrispinとGuy L. Steele Jr.が多くの項目を加え、Stanford側ではDon Woodsが連絡役となった。ファイルはStanfordとMITに複製され、時折同期された。

一冊の原稿を一人が書く
        ではなく
        
        離れた計算機上のコピーが
        人とネットワークを通じて更新される

Jargon Fileは、完成した辞書がネットへ配布されたのではない。

ネットワーク上を移動しながら辞書になった。

ファイル名が文化の名前になる

本来、収録されていたのは厳密な意味での専門用語だけではない。

  • 研究室内の俗語
  • コンピュータへ向けた擬人化表現
  • プログラミング上の比喩
  • 失敗や故障の呼び方
  • 発音できない記号の読み方
  • 身内の人物や事件に由来する言葉
  • 冗談、物語、伝説

編集史の説明によれば、内容としてはjargonよりslangに近い部分も多かった。しかし、名前が広く知られた後だったため、Jargon Fileという呼称が残った。

仮のファイル名が、共同体全体の記憶装置の名前になった。

辞書の中に、声が残る

Jargon Fileの項目には、通常の辞書にはない情報が多い。

単語
        ├─ 品詞
        ├─ 発音
        ├─ 意味
        ├─ 使用例
        ├─ 発祥した共同体
        ├─ 関連語
        ├─ 冗談
        └─ 歴史的な注釈

たとえば、単語の発音表記、MITとStanfordでの使い方の違い、PDP-10の命令名から生まれた比喩、古い計算機の故障にまつわる言い回しなどが記録された。

それは語彙の標本箱であると同時に、研究室の会話、端末室の空気、夜中の作業、失敗を笑う方法まで保存する装置だった。

1981年、紙へ出る

1981年春、Jargon Fileの大きな一部が、Stewart BrandのCoEvolution Quarterly第29号へ掲載された。

編集史では、これがJargon Fileの最初の紙媒体での公開とされている。

オンラインの共同文書が、雑誌のページへ移された。

研究室の端末
              ↓
        ARPANET上のファイル
              ↓
        雑誌の記事
              ↓
        研究室の外の読者

この時点で、内部の言葉は外部から読める文化資料へ変わり始めた。

1983年、『The Hacker's Dictionary』になる

Guy SteeleはJargon Fileの後期版を一般読者向けに編集し、1983年にThe Hacker's Dictionaryとして出版した。

Raphael Finkel、Don Woods、Mark Crispin、Richard Stallman、Geoff Goodfellowらも編集や内容に関わった。

この書籍化は、単なるファイル形式の変更ではなかった。

常に更新される共同ファイル
                ↓
        ある時点を固定した書籍

本は広く読める一方で、出版した瞬間に内容が固定される。

Jargon Fileはこの後、一時的な凍結のつもりが、研究室文化の変化や人々の離散によって、約七年間ほとんど更新されない状態になった。

1990年、再び生きたファイルになる

1990年、Eric S. RaymondがGuy Steeleの承認を得て、大規模な再編と追加を行った。

1990年6月12日のversion 2.1.1は、編集史上「七年の中断後にJargon Fileが再び生き返った」版として記録されている。

再始動後は、古いAI LabやPDP-10文化だけでなく、次の領域が大きく加わった。

  • Unix
  • C
  • Usenet
  • パーソナルコンピュータ
  • Amiga
  • Macintosh
  • IBM系文化
  • ネットワーク上の新しい俗語

Jargon Fileは、失われつつある古い文化の記念碑であると同時に、当時進行中だった新しいハッカー文化の辞書へ変わった。

Usenetが編集部になる

再始動したJargon Fileには、数多くのUsenet利用者から語、訂正、歴史的証言が寄せられた。

編集者が調べる
              +
        共同体が投稿する
              +
        古参者が記憶を補う
              +
        別の文化圏が異議を唱える

文書は一人の権威が確定するものではなく、ネットワーク上で議論されるものだった。

この構造は、現在のWiki、オープンソース文書、オンライン百科事典に近い。

ただし、誰でも直接書き換えられるわけではない。編集者が投稿を選び、裏付けを探し、語同士を結び、書式を統一した。

Jargon Fileは集合知だったが、編集のない集合ではなかった。

『The New Hacker's Dictionary』

再編集されたJargon Fileは、書籍The New Hacker's Dictionaryの本文にもなった。

  • 1991年:Jargon File 2.9.6を基に初版
  • 1993年:version 3.0.0を基に第2版
  • 1996年:version 4.0.0を基に第3版

オンライン版と書籍版は、互いの複製ではあるが完全に同じ存在ではない。

オンライン版
        = 更新され、検索され、再配布される
        
        書籍版
        = 一時点の文化を固定し、書架へ置く

オンラインのファイルが本になり、その本が再びネット文化の自己像へ影響する循環が生まれた。

中立的な辞書ではない

Jargon Fileは、文化史資料として重要である。しかし、すべてのハッカー文化を均等に代表する中立的な辞書ではない。

どの語を採用するか、どの語を削除するか、古い語を歴史として残すか、現在使われていないとして外すかは、編集判断である。

Eric S. Raymondによる更新では、古いPDP-10文化と、Unix・Usenet・マイクロコンピュータ文化を一つの系譜として扱うことに批判もあった。

保存する
        = 歴史を残す
        
        更新する
        = 現在の文化を反映する
        
        削除する
        = 文書を読みやすくする
          と同時に、過去を見えにくくする

実際、Jargon Fileには、かつて追加され後に削除された項目を集めたJargon Chaff Fileも残されている。

辞書の外へ捨てられた語も、編集史の標本になる。

hackerとcrackerを分けた文書

Jargon Fileは、hackhackercrackerphreakなどの言葉がどう理解されていたかを知る重要な資料である。

とくに、創造的にシステムを理解するhackerと、セキュリティを破るcrackerを分ける説明は、ハッカー文化内部の自己定義として広く参照された。

しかし、それは単なる辞書的事実ではない。

この言葉は本来こういう意味だ
              ↓
        自分たちはこういう共同体だ
              ↓
        外部からの呼ばれ方を訂正したい

用語の定義は、共同体の名誉、倫理、境界を守る行為でもあった。

語彙の化石と生きた言葉

Jargon Fileには、現在も使われる言葉と、消えた計算機に結び付いた言葉が共存する。

  • PDP-10
  • ITS
  • SAIL
  • Lisp Machine
  • Unix
  • Usenet
  • BBS
  • Internet

古い語は、単に使えない情報ではない。

その語が必要だった機械、操作、共同体がかつて存在した証拠である。

語が死ぬとき、その語が指していた機械や生活も見えなくなる。

Jargon Fileは、古い語を保存する博物館と、新しい語を取り込む辞書の間で揺れ続けた。

公有された文化遺産

Jargon Fileのオンライン版は、自らをpublic domainの文書と説明している。

自由に利用、共有、変更できる一方、引用時には版番号と日付を示すことが文化的な礼儀として求められた。

法的な制限を最小化する
                ↓
        自由にコピーできる
                ↓
        ただし出典と版を示す
                ↓
        変化する文書として扱う

これは、文章の所有を放棄することではなく、共同体の共有財産として維持するための作法だった。

現在から見るJargon File

公式リソースページ、閲覧用HTML、変更履歴、ダウンロード用データ、削除項目の記録は現在も公開されている。

主要な閲覧版の改訂履歴は、2003年12月29日のversion 4.4.7まで詳細に残されている。公式リソースページにはversion 4.4.8の表記もあるが、閲覧本文や変更履歴との版表示には差がある。

この状態も、Jargon Fileらしい。

完成して閉じられた辞書ではなく、複製、版、更新履歴が少しずつずれながら残るファイルだからである。

当サイトにおける位置

当サイトでは、Jargon Fileを単なる参考文献としてではなく、一つの標本として扱う。

hackcrackphreakという基幹語を説明するとき、Jargon Fileは重要な資料になる。

同時に、Jargon File自身も次の問いを持つ。

  • 共同体は自分をどのように定義するのか
  • 誰が語を採用し、誰が削除するのか
  • 生きた言葉と歴史資料をどう両立させるのか
  • ネットワーク上の共同文書は誰のものか
  • 古いファイルを更新することは、保存か改変か
  • 辞書は文化を記録するのか、文化を作るのか
Jargon Fileは、ハッカー文化を説明する辞書であると同時に、ハッカー文化がどのように自分の履歴を管理したかを示す実物だった。

関連標本

  • hack / hacking
  • crack / cracking
  • phreak
  • hacker
  • cracker
  • The Hacker's Dictionary
  • The New Hacker's Dictionary
  • Tech Model Railroad Club
  • MIT AI Lab
  • Stanford AI Lab / SAIL
  • PDP-10
  • ITS
  • ARPANET
  • Unix
  • Usenet
  • alt.folklore.computers
  • Richard Stallman
  • Guy L. Steele Jr.
  • Raphael Finkel
  • Mark Crispin
  • Don Woods
  • Eric S. Raymond
  • Jargon Chaff File
  • TEXTFILES.COM
  • 2600 Magazine
  • Phrack

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