受話器を、二つのゴムのカップへ置く
音響カプラは、電話回線へ電気的に直接接続せず、電話機の受話器を介してコンピュータのデータを送受信する装置である。
コンピュータ
↓ デジタル信号
モデム/音響カプラ
↓ 音
電話機の送話口
↓
電話網
↓
相手側の電話機・モデム
装置には、受話器の送話口と受話口を押し当てる二つのカップがある。
一方のカップ内のスピーカーが音を出し、もう一方のマイクが相手から届いた音を拾う。
音響カプラは、電話線へ入る許可を得る代わりに、電話機へ口と耳を当てた。
電話網は、音の意味を問わない
公衆電話網は、人間の会話を運ぶために作られた。
しかし、網が運ぶのは「意味」ではなく、一定の帯域に収まる音の変化である。
モデムは、コンピュータのビットを音へ変える。
電話網は、それが人の声か、機械のデータかを区別せず運ぶ。
人間の声
モデム音
ファクシミリ信号
警報装置の信号
電話網から見れば、すべて音声帯域の信号
音響カプラは、この性質を最も目に見える形で利用した。
電話機を分解しない。
交換機へ特別な変更を要求しない。
受話器を通じて、コンピュータに電話の声を与える。
direct connect以前の境界
現在のモデムや回線終端装置は、専用コネクタで通信線へ接続する。
しかし、電話会社が端末や回線接続を厳しく管理していた時代、利用者が任意の装置を電話線へ直接つなぐことは容易ではなかった。
音響結合なら、電話会社の設備へ電気的に触れずに済む。
直接接続
電話線と装置を電気的につなぐ
音響結合
認可された電話機を残し、音だけを受け渡す
これは性能上の妥協であると同時に、制度上の迂回路だった。
音響カプラは、通信技術と規制の境界に、音という非接触の継ぎ目を作った。
ダイヤルは人間が行う
多くの音響カプラでは、接続の手順に人間の手が残る。
電話番号をダイヤルする
↓
相手が応答する/モデム音を確認する
↓
受話器をカップへ置く
↓
通信を始める
自動ダイヤル機能を持つモデムとは異なり、電話をかける行為と、データ通信を始める行為が物理的に分かれている。
受話器の向きが違えば通信できない。
きちんとカップへ密着していなければ、外部の音が混ざる。
切断するときは、受話器を持ち上げて戻す。
コンピュータ通信が、電話を使う人間の身振りの中に埋め込まれていた。
ゴムのカップは、音響的なコネクタである
音響カプラのカップは、受話器を固定するだけではない。
- スピーカーと送話口を近づける
- マイクと受話口を近づける
- 周囲の雑音を遮る
- ハウリングや漏話を減らす
- 異なる受話器形状をある程度吸収する
という役割を持つ。
電気コネクタにはピン配列と電圧規格がある。
音響カプラでは、受話器の形状、密着、音量、部屋の静けさが接続条件になる。
ゴムのカップは、規格の違う電話機を音でつなぐ、柔らかいコネクタだった。
300 baudの時間
初期の携帯型端末や音響カプラでは、300 bit/s級の速度が一般的だった。
英数字なら、一秒に数十文字ほどである。
画面が一瞬で完成するのではなく、文字が順番に現れる。
C
CO
CON
CONN
CONNE
CONNECT
利用者は、回線の速度を表示の動きとして直接感じた。
大きなファイルの転送には長い時間が必要だった。
だからこそ、ログを短くする、文章を圧縮する、オフラインで準備する、XMODEMのような再送可能なプロトコルを使う、といった文化が生まれた。
持ち運べる端末
Computer History Museumが保存するTI Silent 700のような端末には、音響カプラが組み込まれていた。
利用者は、電話機のある場所なら、受話器を載せて遠隔のtimesharing computerへ接続できた。
ホテル、事務所、研究室、公衆電話など、電話機が情報端末への入口になる。
専用データ回線を探す
ではなく
その場所にある電話機を借りる
電話網の普及範囲が、そのままコンピュータ通信の潜在的な到達範囲になった。
公衆電話と音響カプラ
直接配線できない電話機でも、受話器を持ち上げられれば、音響カプラを使える可能性がある。
この性質は、公衆電話やホテルの電話など、利用者が内部配線へ触れられない場所で重要だった。
ただし、受話器の形、回線品質、送話器の特性、音量、周囲の騒音によって通信の成否は変わる。
音響カプラは、どこでも確実につながる魔法の装置ではない。
電話機を所有しなくても通信できるが、その場所の電話機と音環境へ身体を合わせなければならない道具だった。
phreakingとの接点
音響カプラは、電話網の制御信号を偽造する装置ではない。
それでもphreakingと近い情緒がある。
電話会社が音声通話用に作った網を、利用者側の装置によって別の用途へ変える。
電話会社が提供するもの
= 人間同士の音声通話
利用者が重ねるもの
= コンピュータ同士のデータ通信
網を破壊せず、内部を改造せず、既存の入口から別の意味を流す。
電話網が自分の運ぶ音の意味を理解しないことが、用途の自由を生んだ。
2600 Hzとの違い
2600 Hzのphreakingでは、利用者の音が交換機内部の制御信号として誤認された。
音響カプラでは、モデム音は交換機への命令ではない。
単なる通話内容として運ばれる。
2600 Hz
音が電話網の制御へ作用する
音響カプラ
音を電話網に透明に運ばせ、その先のモデムが解釈する
同じ音声路を使っても、意味を読む主体が異なる。
この違いは、in-band signalingと、単なるin-band data transmissionを分ける。
この標本が示す境界
- 電話網は、音の意味を知らなくてもデータ網になれる
- 直接接続できなくても、音響的な接続は可能である
- 規制や端末所有の境界は、別の物理層によって迂回され得る
- 通信装置の操作に、人間の手と受話器の身振りが残っていた
- 低速と雑音が、通信ソフトと共同体の作法を形成した
- 普及済みのインフラは、設計者が想定しなかった用途の基盤になる
音響カプラは、電話機をコンピュータへ変えたのではない。コンピュータが、電話機のふりをして話すための口と耳だった。
関連標本
- Hayes escape sequence――沈黙に挟まれた3文字が、データからコマンドへ変わる
- XMODEM――壊れる電話回線の上で、ファイルを完全に渡す
- パソコン通信――一つの巨大ホストへ電話をかけた社会
- modem
- acoustic coupling
- Carterfone
- Bell 103
- TI Silent 700
- dial-up